うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

変わっても、変わらなくても、心にあれ

潮時だと感じていた。
コロナ禍での有無を言わさぬ分断だったり、自身の加齢だったり、環境の変化だったり。
競馬そのものも、わたし自身も変わってしまったから。
若く新しくより開かれていく競馬の世界と、歳をとって人生に疲れた大人になってしまったわたし。
変わってしまったもの同士、もう交わることも共にありつづけることもできないだろう。
以前のように「楽しい」ができないのなら、もう行くべきじゃない。誰に対しても失礼だもの。
そんなことを考えながら悶々と過ごした一年間だった。
ほぼ一年のあいだ現地へは行けなかった。機会はいくらでもあったのに、行かなかった。
前に行ったのが阪神競馬場で、あれはたしかメイショウカズサのカノープスステークスだ。昨年の11月末だった。
ずっと別れの機会をうかがっていたのかもしれない。
いろんなことを知るたびに、見えなかったものが見えすぎて、やがて欺瞞を感じるようになった。
いつしか夢は醒めて、向きあうことがしんどくなって、愛するもののすべてを肯定することができなくなった。
そうして情熱を少しずつうしなっていった。
楽しいだけじゃなくなった。つらいことが増えた。重たくなりすぎてしまった。好きだから。
誰のせいでもない。ただ変わってしまったもの同士が合わなくなってしまっただけ。
愛しているからさようなら、という関係性だってあるだろう。
それでも「やめます」とは言えなかった。言わなかった。
趣味ってべつに誰かに何かを宣言してどうこうするようなものじゃないし、言ってしまったら楽にはなったかもしれないけど、わざわざそんなこと言ったって誰も楽しくないよなあとも思っていた。
何より、楽しくなくなっても、つらくなっても、重たくても、嫌になったり嫌いにはなれなかった。
愛そのものは変わらずにあったから。

 

新しくなった京都競馬場は、変わったけれど、変わりなく、美しい場所だった。
形あるものや心が変わるのはあたりまえのことで、誰にも何にも止められない。それが生きるということ。ありつづけるということ。
わたしは好きなものを好きでいつづけるためには、一緒に変わっていくか、変わらないままでいるかのどちらかしかないと思っていた。
そのどちらもできなかったわたしは、独り相撲で苦しんだ。
常にめまぐるしく変化していく新しい価値観やデータを自分の中でかみくだいて、許容し、アップデートしながらついていくのはいつしかあきらめた。
ずっと楽しいまま、若い気持ちで、夢や情熱を抱いたままでいることもできなかった。
そうして何ものでもなく、何もできなくなった自分は去るしかないと思っていた。
だけどまた競馬場に来ることはできた。

 

行っただけ。
馬を見て、人を見て、レースを観た。
場内を歩いて、懐かしい人たちと会って話して、カメラを構えて写真を撮った。
フードコートで焼き鳥丼を食べた。
紙の応援馬券を買った。11月とは思えない汗ばむ陽気の中で、ただ競馬をした。
変わったけれど、変わりなく、好きな場所だった。
心地よい疲れに身を委ねながら、たぶんまた来ることもあるだろうとぼんやり思った。
来るものを拒まないし、いつでも誰でも受け入れてくれる。ずっとそういうところだった。
人生に失敗して死にたがっていた若いわたしに世界の美しさを教えてくれた場所。
歳をとって、ふたたび人生に疲れて、死んでないだけのわたしに、世界は変わらず美しいということを思い出させてくれた。そんな場所に、めぐりめぐってまた帰ってきた。
だけどもう、ずっとそばにいることはないだろう。
以前のように毎週末通ったりもできないだろうし、寝ても覚めても人馬のことを考えているような熱い時間はもう過ぎ去った。
それでもわたしは競馬が好きだ。
好きってなんだろう?
絶え間なく強い愛情を注ぎつづけることや、時間やお金や労力を捧げつづけることは素晴らしいけれど、それはあくまで愛しかたの話でしかない。
心にあれば、愛なのだ。
楽しくなくなってしまっても、つらいことが多くなっても、重たくてなりすぎても、わたしは競馬を好きでいた。
ただそれだけでいいじゃないかと、ようやく思えた。
好きなだけでいい。想っているだけでいい。ときどき、ただ行って帰ってくるだけの愛でもいいじゃないか。
変わってもいい。変わらなくてもいい。心にあればそれでいい。