うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

趣味を休んでみませんか

長年の蓄積なのだと思う。
好きだから赦していたこと、赦せていたことがだんだんと引っかかるようになってきた。
小さい小さい、心のささくれみたいな場所に。
それがだんだんと痛みだしてきた。

わたしは変わった。
競馬も変わっていく。
変わったわたしが、これからも変わっていく世界にいつづけるのは難しくなった。
ここ数年のあいだで以前のようなモチベーションが保てなくなった。
お金を賭けるのがつらくなった。
ドキドキもワクワクも興味も関心も、かなり薄れてしまった。
何より、自分にとって受け入れられないものがあたりまえにあるようになった。
目に耳に入ってくるそれらをやり過ごすことに疲れた。
否定はしないが、理解も許容もできないことがある。
いやなことが起こったり、いやな人物を目にしたり、いやな言葉をみるたびに、「でもわたしは好きだから」と気をとりなおして自分を元気づけていくことに疲れた。
はじめからそういう我慢の上に成り立つ好きだったんだろう。
好きが大きいときは我慢を我慢と感じなかっただけ。
好きに我慢はつきものだろうか?
たくさん人が集まればそういうものになっていくのかもしれない。
嫌になったのでも、嫌いになったのでもない。
誰のせいでもない。
ただ、変わった自分が変わった世界でいままでのようにがんばれなくなっただけ。我慢ができなくなっただけ。
わたしにとって競馬は、がんばらなきゃかかわれない、我慢しなきゃつづけられない趣味になってしまった。
好きなのにつらい。
つらければ休めばいい。
そう感じる自分を、もう観念して赦すことにした。

とはいえ趣味なんてべつに宣言してやめるようなものじゃない。
やめるのは、深くかかわること。義務を感じることだけだ。
いちどフリーの状態になってみる。
練習についていけなくて退部してもそのスポーツ自体は好き、みたいな感じ。
推し事から外してみる。
いったん心で想うだけになってみる。
あたりまえだけど、自分が元気じゃないと、誰か何かを応援する力はわいてこない。
わたしはいま、元気がない。生きていくことだけでせいいっぱい。
心も体もお金も、何もかも余裕がない。
変わったのは心だけでなく環境や生き方もだ。いや、それらが心を変えたのかもしれない。
しばらくは自分と家族と暮らしに専念したい。しなければななくなった。事情が変わった。
それを休む理由のひとつに挙げるのはちょっと心苦しいのだけど、事実は事実だ。
理由があるからいまはそれに乗る。
趣味のタグを外す。自分のタグ付けをやめる。
そうして月日を重ねて人生を立て直していくうちに、また新しい想いが生まれてくるかもしれない。
いまはいまのことしか考えられないから、先のことはぜんぜん分からないけれど。

わたしは趣味も情熱も持てない、つまらない人間になってしまったのかもしれない。
歳をとることって、がんばったらできていたことができなくなっていくかわりに、何かを少しずつあきらめながら、怒ることや赦せないことを受け流していけるようになることなんじゃないかなと最近は思う。
そうしないと重たすぎて生きるのが苦しくなっていく一方だから。
幸せで楽しいまま、すべてを選びとるのは無理だ。
子どものように無我夢中で追いかけることも、若い頃のようにすべてをなげうって愛することも、歳をとって人生に疲れたわたしにはもうできない。
できるのは、ただおだやかに想うだけ。
愛していたら必ずつきあわなきゃならないという決まりはない。
愛を貫かなきゃならないわけでも、添い遂げなきゃならないわけでもない。
愛とは本来、自由なものだ。
想うだけでもいい。見守るだけでもいい。すべてを赦し愛さなくてもいい。
そう思えるようになった。
だからそう思う自分を赦して、好きで好きでしかたなかったものからいちど離れてみる。

「趣味を休んでみませんか。」
ずっと問いかけられていた。内なる自分から。
その問いかけに、満を持して応えてみようと思う。