うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

おとなの趣味じまい

わたしはゲームが好きだった。
漫画を描いていた。小説を書いていた。
いつのまにかゲームをしなくなった。
創作もしなくなった。
寝るのも惜しいほど夢中になったものたちを手放して、わたしは大人になった。
いや、大人になったから手の中から離れていったのだろうか。

今年、大人になってから出会った趣味から離れた。
趣味じゃなくなったと認めた。
ずっと避けてたけど、ついに言った。
コロナ禍や暮らしの変化、自らの人生のままならなさやつたなさで、夢中になれる時間はもう終わってしまったのだった。
嫌になって、嫌いになってやめたのではない。できなくなったことに区切りをつけただけ。好きなものは好きなままだ。

好きなのに、どうして楽しいままではいられないんだろう。
それは、人は変わるからだ。この世のすべてのものは変わっていくから。
人もものも、変わらずにはいられない。ずっと不変のものなど存在しない。
変わることは、成長なのか衰退なのか。
たぶんそのどっちでもないし、どっちでもある。
歳をとるのも変化。暮らしがかわるのも変化。考え方や感じ方が変わるのも変化。
変わることは悪いことじゃない。この世に生まれたものにとって当たり前のこと。
わたしは歳をとって暮らしや価値観が変わり、競馬というスポーツも時代の流れとともにずいぶんと変わっていってしまった。
その変化の中にどうしても受け入れられないことがあって、以前のように楽しんで関わることが難しくなってしまった。
嫌になったのでも嫌いになったのでもない、ただ一緒に走れなくなっただけ。でもそれはもう趣味とはいえない。
好きだけど、もうだめだ。ここまでだ。
大人になったら、好きなのに別れを選ぶなんて矛盾に満ちたことがほんとうに起こるのだと身をもって知った。

趣味をやめることは裏切りだろうか。
情熱をあきらめることは、これまで関わってきた世界や人を捨てることだろうか。
だけどアスリートだっていずれ競技を引退する。
体の衰え、モチベーションの低下、病気によるもの、家庭の事情…
ありとあらゆる分野のスポーツで何人ものアスリートを見送ってきた。
ファンが彼らに望むのは、幸せな人生、よきセカンドキャリア。
まさか彼らの決断を逃げとか裏切りと言って責める人はいないだろう。
ただのひとのわたしたちだって、趣味を引退したその後の人生をよきものとして謳歌してもいいのだと思う。

競馬が好きだ。
出会った頃のように情熱をもって取り組めなくなってしまっただけで。
たまたま今がそういう時期なのかも知れないし、また新しい気持ちで心に火が灯る日が来るのかも知れない。
生活なり価値観なりがまた変わったら、出会いなおしもありうる。
でも歳をとったわたしは、執着は高カロリーだな、とも思うのだ。
なにかに執着するのは、もうしんどい。
思い返せばわたしの趣味ぐらしは、執着とのたたかいだった。執着を手放すことこそが人生の命題だったようにさえ感じる。
いつも愛しすぎて苦しくなる。もっと楽に、ただ好きなだけでいられればよかったのに。
今はただ、おだやかに愛していたい。好きなものを愛したままでいるために、情熱をあきらめずに関わりつづけることとは正反対の「趣味じまい」をわたしは選んだ。
捨てたのでも裏切ったのでもない。思い出と情熱は心の中に大事にしまってある。
取り出して懐かしむ日もあるし、磨きなおして再スタートを切る時も来るかも知れない。
そのためにわたしは今年、ずっと情熱をもって関わってきた競馬という趣味を大事にしまい込んだ。
のちの人生における可能性を残すために。そして、ずっと愛していくために。