うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

物欲のない、あなたへ

どうしてこの人から、いろんな欲でいっぱいのわたしが生まれ育ったのかが不思議でたまらない。
わたしは欲しいものもしたいことも行きたいところもありあまるくらいにありすぎるっていうのに!

母は物持ちがいい。よすぎて困る。
服とか小物類とか、身につけるものは十年選手もざら。
くたびれても破れたりしなければずっと同じ服を着つづける。わたしが贈るようになるまでは三着くらいのローテーションだった。
愛着じゃない。ケチってるわけでもない。
単に「店へ行って、服を探して選んで、試着して、新しいのを買ってくる」のがめんどくさいらしい。極度の出不精で買い物ぎらい。
持ち物も最小限。スマホは最近やっと持ち歩いてくれるようになった。
靴はずっとコンバースのスニーカー。履き古したらそっくり同じ色形のを買い替えてくる。

だから誕生日と母の日には、新しい服をプレゼントするのがお約束になった。
おもにトップスを贈る。肩幅が分厚いからきっと母もわたしと同じ骨格ストレートだ。
さすがに素人見立てでパーソナルカラーまではわからないけど、なんとなくオータムだと思う。いや、同じウィンターかも。
生地が薄くて華奢なレディースの服は合わないし本人の好みじゃないので、メンズから探す。丈夫でシンプルでスポーティーなのが好きなのだ。
「最近はトレーナーが売ってない」と母は言う。そういえば今はトレーナーって言わないんだっけ。いつのまにかスウェットって名前に変わってるなあ。
そらトレーナーって思い込んで探しても見つかれへんわけよ。見つからないから余計めんどくさくなるのね。
メンズのMを選ぶといい感じになる。とはいえ肩幅が厚いだけで背は低いから袖丈が余る。
もたつくところは折り返したり捲ったりして着ている。若い頃からずっとそうしているらしい。
もっと体に合ったサイズの服がいっぱいあって、選べるバリエーションが豊富なら服めんどくさいってならなかったのかもしれないなあと、今これ書きながらふと思った。

母はあるもので満足して、暮らしをまわす。
正反対のわたしは「もっとこうしたらいいのに」「世の中にはこういう便利なものがあるのに」と、もどかしい。
生活に不自由なく余裕もあるんだからたまに服くらい買ったらいいのに、と思うのだけど母の楽しみはそこにはない。それじゃないだけ。
母は毎日、酒と煙草を嗜む。
わたしから見ればほぼ依存だし本人も自覚しているけど、そこに幸せがあるのなら誰にも咎められないだろう。よっぽど人に迷惑をかけたり体を壊したりしない限り。それが大人だ。
あと本が好き。文庫本を毎日読んでいるから図書券でも、と思うけど、なにせ現金以外での支払いをめんどくさがる人だ。
スマホ大阪市のプレミアム付き商品券を使うことで多少は免疫がついたっぽいから、今後はデジタル金券も検討に入れてみる。
身内とはいえさすがに「これで好きな本買っといで」とお金を渡すのは気が引ける。プレゼントはやはりギフトという形をとりたい。

母はわたしが選んできた服を喜んで毎日のローテーションに加えてくれる。
自分で買いに行かないからありがたい、と言って。
わたしは一緒に買い物へ行ったりするのもやぶさかではないのだけど、本人が強く望まないから、いつしか誘わないようになった。数年に一回くらい「ジーパン買い替えたいから、ある店へ連れてって」と言われるのでつきあうくらい。
そして母はまた贈られた服ばっかり着る。だからわたしはまた新しい服を贈る。わたしたちは、このくりかえし。
そんな感じでいい気がしてきた。
わたしは年老いてきた母にもっと自分の楽しみの幅を広げてほしいと思ってきた。もっと家から外へ出て、パターン化された日常以外の新しいことにも関心を持ってほしいと。
一緒に暮らして一生をともにするつもりだから余計にだろう。
でもそれもわたしのエゴで押しつけかな、と思いなおすようになった。
たまに服を贈って、気に入ったら着てもらえればいいや。
母は本を読んで酒と煙草を呑んで、元気に暮らしてくれればいい。

今年はシガレットケースを贈ることにした。
ふと見たら何かのノベルティのポーチを十数年も使いつづけていたから。
愛着でも倹約でもなく単に替える理由がなかったからだろう。
イタリアンレザーの長持ちしそうなのにした。母の好きな色を選んだ。
きっと、いつものように喜んでくれるだろう。