うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

趣味をやめることは、裏切りなのか

そんなことをずっと考えていた。
ジャンルの切れ目が縁の切れ目、とは俗に申しますが。
趣味やめは個人の決断でしかなく他者への裏切りとは違うやろ、という一択しか答えはありえない。
応援団とか仲間同士で何かを表現したりするグループに属してるならちょっとややこしくなって引け目も感じるだろうけど、どのみち物事は終わる時には終わるのだ。後か先かの違いだけ。
どうしたって情熱は落ち着いていくし、人の心は変わる。
成長も停滞も退化もするのが人間。堕落だってある。立ち止まる権利も、休む自由もある。
心のありかたによって好きなものへの愛のかたちも変わるし、加齢や暮らしの移ろいにしたがい関わりかたを変えざるを得ない時がいつか来る。
そこにありつづける趣味にとっては「事情」でしかないんだけど、情熱というものはどうも事情にわりと左右されるものらしい。不思議なことに。
わたしの場合はコロナ禍が引き金となった。
実は、あんな世界になる前からも競馬を嗜むことに行き詰まり自体は感じていた。
晩年は、好きだけどつらかった。
好きになりすぎて、知りすぎてしまったのだ。
愛するのもののすべてを赦し受け入れることができなくて、苦しむことのほうが喜びよりも多くなった。
そんなときに世界が変わった。何もかもが不自由になって、無条件に夢を奪われてみて、「今までやってきた応援ができなくても、現地へ行けなくっても大丈夫」な自分を感じたときに、終わりは始まったのだと思う。
きっかけに過ぎなかったとしても、心が動き体が動かなくなる遠因となった。
考える時間がたっぷりと与えられて、熱が引き冷静になったのだ。

わたしは趣味をやめた。
離れていれば愛していけると思っていたけれど、離れれば離れるほどに、もう戻ることはないだろうなと実感が強まり、やがて確信となった。
嫌いになったんじゃない。嫌にはなったけど、愛が終わったわけじゃない。
だけどもうかかわることはできない。
近づきすぎて見えすぎて、嫌になって離れたことでさらによく見えるようになったから。
何事も、見すぎてはいけない。知りすぎてはいけない。近づきすぎてはいけない。愛しすぎてはいけないのだ。
そう悟ったわたしは変わってしまった。
進化だろうか、退化だろうか。少なくとも堕落と停滞からは抜け出せたと思いたい。ただ権利を行使して自由を得た。それだけのこと。

もしも親しい人が、わたしのように思い悩んだうえで趣味をやめたいと言ったなら。
どうして責められよう。
裏切りだなんて思うわけもない。
それはあなたが変わったからだ、と静かに受け入れるだけ。
変わることは人間の性なのだから。
変わったわたしは、大好きだった趣味とともに自分を責めることをやめた。
だからこそ人を赦せるようにもなった。