うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

心の病気を治したいのでツイッターやめました

まず、疲れたとか。
書くことにおいてないがしろにされたなぁと感じることがあったとか。
言葉と気持ちのすれ違いで誰かと傷つけあってしまったとか。
いろいろあったんですけど、心のキャパが狭いのにぜんぶ赦そうとしたのがいちばんの間違いだったなぁと。
いくら赦したくても赦せないものは赦せないし、消せないモヤモヤだって残る。人間だもの。
病気だとは言ったけど病院に通ってるわけじゃないです。
でも、なんにもないのにこんなに疲れてしんどいのは、もう心の病気でしょう。
わたしは病気を治して元気を取り戻すことを選んだ。

好きなものを好きでいるのに、もともと他人はあんまり関係なかった。少なくともわたしは。
分かち合って楽しくなることをツイッターで知ったから、そういう楽しみかたに馴染もうとしてきたけど、本来わたしは何事もひとりでゆっくりかみしめたい人間だった。
人より考え感じるスピードが遅いんだと思う。
深く考えすぎるのと自信がないのもあって、人とのコミュニケーションでは楽しさよりもすり減ってしまう割合のほうが多い。
昔からそうだった。生きづらかった。
だからゲームも漫画も書くことも、ほんとうに好きなことはひとりで黙々と取り組んできた。
競馬と出会ってツイッターをはじめて世界が広がって、こんな自分も変われるかもしれないと思ったのだった。
でも人間の本質って変わらないんですね、基本的に。
人付き合いが嫌だとか、誰かを嫌いになったとかじゃない。
これはもう生きかた感じかたなので、一生変えることはできないだろう。

ツイッター、向いてなかった。
心と心のダイレクトなぶつかり合いの場なんて、なおさら向いてなかった。
いい人たちとの出会いに恵まれて、いろんな話ができて楽しかったけど、いつもなんとなく後ろめたくて息苦しかった。
それはやっぱり自分に合わない生き方をしようとしていたからだ。
合わない場所に無理やり合わせる必要はない。
ここは自分の居場所じゃなかっただけだ。
ここでならすべてをさらけ出せると思ったけど、どこへ行ったって自分は自分なんだもの。
居場所ならはじめからある。今ある暮らしの中に。寝起きし働き飲み食いしてる毎日に。それでいいじゃないか。

好きなものを好きだという気持ちを必ずしも見える形で表現しなきゃいけないわけじゃない。
絶対に相手に伝えなきゃいけないのでもないし、誰かに分かってもらう必要もない。
自分の心は自分がわかっていればいい。
見えなくてもあるんです。心の中に。
愛は人に見せるものでも、比べるものでも、自己表現や評価されるためのものでも、居場所や仲間を得るための手段でもない。
ツイッターは愛をもツールに替えてしまう。特に趣味の愛を。
好きなものをただ好きでいたい。
そこに世界や他人が入ってくると、わたしの場合やっぱり複雑になりすぎてしまう。
ひとりで黙々と好いていた頃はこんな迷いなんてなかった。
だからその頃に戻ってみるだけ。

わたしがこのことを伝えたい人たちには、この記事はほとんど読まれないだろう。
シェアするアカウントを消したから。
ブログを読者登録している人のもとへは通知がいくだろうけど片手で足るくらいだ。
探そうと思えば探せるだろうが、ほとんどの人はそこまではしないだろう。
黙って消えたことにすら気づかれていないかもしれない。そういうものだ、SNSって。
誰かいなくなっても誰がいなくなったかはわからない。ほんとうにいなくなる人は黙って消えていく。
その程度のつながりしか残せなかった自分のつたなさだろうか。
いや、ツイッターではこれくらいがちょうどいいとあえて深い付き合いをしてこなかった。
切れるときは切れる縁だと。
そして思ったとおりになった。

大好きだった人たち、さようなら。
またどこかで会えることもあるかも知れないけれど。
ひとまず英気を養って自分を取り戻します。
病気と向き合いながら生きていくという選択肢もあるけれど、もうそこまでしなくてもいいや。