うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

今は、愛する余裕がないんだ

気づいてしまった。
いや、違う。好きで楽しくてたまらなくて気にならなかっただけ。
情熱のピークを過ぎてからは、気づかないふりをして、なるべく考えないようにしていただけ。
ここは好きだけど、これは好きじゃない。それも、あれも、好きじゃない。
自覚したらあとはもう早かった。
好きなもののすべてを愛さなくてもいい。愛せないところもあっていい。
納得したら、好きな部分はしっかり残りつつも、いつのまにか愛せない部分も多くなっていた。この十数年間でちょっとずつ増えていたのだ。
もはや競馬の話題がたえず流れてくるのさえ今はなんとなくつらくて、ツイッターはあんまり見なくなった。

もう終わりのまとめに向かっていっているのかもしれない。
ひとにぎりの好きのために、ずっとここにしがみついている必要はないのかもしれない。
好きなものでさえ、すべてを愛し肯定できるわけでもないのだし。
じゃあ、なぜ、なにを。
これはわたしが望んだ愛のかたちだろうか。
愛してるのにつらいなんて、悲しい。むなしい。

ああ、疲れたな。
そうだ、わたしは疲れてしまったんだ。
暮らしに埋もれて、人生に追われて、終わりが見えない生きるということになんだかひどく疲れてしまった。
その中で、なにかにこだわったり夢中になる余裕をなくしてしまった。
誰かなにかを愛する余裕がなくなってしまった。
自分に余裕のない時に他者を応援できるわけがない。なにかに関心を抱けるわけがない。
そしてわたしはなにもできなくなった。
とてもつらい。
ずっと愛していたものを、以前のように愛せないことが。

そもそも、愛することは義務だろうか。
愛する気持ちは不変だろうか。
愛するものにも、愛せない部分はある。
愛はあっても、愛せない時間だってあるだろう。
人間は揺れるし、変わるのだから。
わたしの愛のかたちも、たとえ何かしら元気なりモチベーションなりを取り戻したとしても、もう二度と同じかたちには戻らないだろう。
それは淋しいことかもしれない。
でも、変わらないものなんて、たぶんない。
人も、ものも、コンテンツも、きっとみんな揺れながら変わっていく。
それは淋しいことだろうか。そうは思わない。少なくとも自分が変わってしまった今は。

好きなもののすべてを愛さなくてもいい。
今は愛せなくなっていてもいい。
愛するもののためになにもできなくてもいい。
心も体も離れてしまってもいい。
わたしは暮らしと人生の中に趣味を飼っている。
暮らしと人生をおろそかにして趣味に執着すると、わたしは趣味に飼われてしまうだろう。
それじゃあだめなのだ。
今いちばんわたしが向き合わなければならないのは、まだまだつづく終わりの見えない生きるということ。暮らしと人生だ。
自分を立て直す。自分の人生をしっかり生きる。自分の暮らしをする。
それができてこそなにかを楽しめるし、誰かを愛することができるのだ。
ひとにぎりの愛が残っているかぎり、情熱はいつかまた戻ってくるだろう。
また趣味にたずさわる時間も取り戻せるだろう。
たとえ違うかたちに変わっていたとしても。