うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

オタクじゃなくっても、人生は楽しい

ぜんぜんオタクじゃなかったわ、わたし。
生まれてからずっとなにかのオタクだと思って生きてきたけど、違ったんだわ。
最近やっとわかった。
自分というものが。好きなものの好きかたが。

なにかにハマるということは、好きな対象との契約だった。
あなたを変わらず愛しつづけますよという心の約束。
おもにゲーム、漫画、好きなジョッキー好きなホースマン好きな馬。
作品だったり特定の存在に惹かれて、ほんとうにそれしか見えなくなる。
対象をより深く知るためにジャンル、ハコへの理解を深めていく。
そうしているうちに気づけばジャンルの人となっていた。
競馬とはいつのまにか十数年のつきあいになっていた。
わたしは競馬ファンを自称していた。

十数年経ってみると情熱も落ち着くもので、愛のかたちも変わるもので。
そうしていると、自分がほんとうに、なにをどう好きだったのかがだんだん見えてくる。
長い時間向きあって、歳をとって、それしか見えていなかった年月をすぎてから、それ以外のものごとがようやく見えてくる。
情熱をうしなってはじめて自分の愛のかたちを知る。
わたしはずっと、特定のなにかだれかをひたすらに好きだった。
だから愛の対象がいる世界を大事に想う。
それだけといえばそれだけ。だから厳密にいえばオタクじゃなかった。
競馬と出会ってから、自然とゲームはしなくなった。読む漫画も本もすごく減った。
もちろん生活の変化や、時間と体力とお金のやりくりの問題もあったけど。
燃える対象がうつろったから、二次創作もしなくなった。
競馬はスポーツでリアルだから、過程と結果を受けとめて反芻するのみで、なにかを自分で創る必要がなかった。
メインジャンルの移動とともに日々のたしなみが変わった。
もともと生粋のゲーム漫画オタクでも、同人女でもなかったわけだ。

そしていまは、競馬からは少し離れた生活をしている。
たぶんそれはしばらくつづくだろう。
だれかの目に見えるように燃えている必要は決してなく、ただ好きなものを心の中で想えるだけでいいのだとわかったから。
わたしは、好きなものごとを深く掘り下げられることがかっこいいと思っていた。
なにかにものすごくハマるのがステイタスだとも思っていた。
オタクになることこそがものごとを楽しむいちばんの生きかたで、自分の人生を豊かにする唯一の方法だと。
常になにかにハマっていたかった。自分を自分たらしめるために。
なにかにハマっていなければ自分じゃない。自分を表現できない。だれかと世界とつながれない。自分の中になんにもなくなってしまう。
常にあふれんばかりの愛で心を満たして、情熱を燃やしてなにかに打ち込んでいたかった。
そうやってアイデンティティを好きなものに求めつづけて生きていた。
重たすぎる愛だ。ほとんど依存だったのかもしれない。

つまらない人間になりたくなかった。
つまらない人生にしたくなかった。
でもそう思いつめながら情熱をうしないかけてもがいていた、ほんの少し前までの自分がいちばんつまらない人間で、つまらない人生を選んでいたと思う。
自分のやりたいことや好きなこと、楽しいことも自分で決められない。
だれかの顔色をうかがって、自分の気持ちを肯定できない。
絶対にこうでないとと思い込む。自分を縛る。
変わること、手放すこと、離れることを赦せない。
せっかく好きなものが心の中にあるのに、無理にとらわれてこだわって苦しむ必要なんてなかったというのに。
情熱をうしなってはじめて、いい意味で「もういいや」「これでいいんだ」と折りあいがついたのだった。

いまはなんにもしていない。
ゲームも二次創作もしていない。漫画もちょっとしか読まない。競馬場へ行く日もすごく減った。
でもどれも好きなままだ。
なんにもしないだけで、心の中にはありつづけている。
自由な時間がうんと増えたようで、体力がおとろえたからか意外となにもできていない。
家族とごはんを食べながらプロ野球中継を観戦したり、いままで観なかったようなアニメ映画ドラマを配信で観てみたり、たまにはカメラを持って花や景色を撮りに行ったり。
それでわかった。
なにかにハマってなくても、ごはんはおいしいし、暮らしは楽しいし、やりたいことはいっぱいある。
生きていくのは大変だけど、人生はいくらでも豊かにできる。
浅かろうが深かろうが、いいものはいい。
おもしろいものはおもしろい。
好きなものは好き。
そうだ、オタクじゃなくっても、人生は楽しいのだ。