うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

推しを推せずとも生きねばならぬ

サウンドキアラの妹サウンドクレアと、マリオの弟マリオロードがついにデビューする。
新潟の新馬戦、厩舎ゆかりの若駒そろっての出陣だ。
気持ちはもう新潟にある。
よっぽど新幹線に飛び乗ろうかと思ったが、すんでのところで思いとどまった。
黙っていれば誰にもわからない。だから行ってもいいのだとは思う。
わたし自身、行くというひとを咎める気持ちはまったくないし。
でも、他ならぬわたしがわかっている。
好きな人馬に後ろめたいことはしたくない。
いま「応援しにいきました!」とは胸を張って誰にも言えない。ひとに言えないことはできない。
これがいまのわたしの愛のかたちだ。

好きな人馬たちは元気だ。たぶん。
わたしも元気だが、応援には行けない。
好きなこともできずにただ生きているだけ。それでも生きねばならぬ。
会いに行かなくても想う愛はあるし、好きなものに熱中できないときもある。
それが人生なんだろう。
ただ好きなものに無限の愛を注いでいられる時間はもう過ぎてしまった。
そんな時代も、年齢も、過ぎてしまった。状況がゆるしてくれなくもなった。
でも愛している。静かに、たしかに、可能なかたちに変わりながら。

五輪を観ていてあらためて、がんばってるひとはかっこいいなぁと感じる。
なにかを好きでいられることは才能。
努力をつづけられるのも、楽しめることも才能。
たとえそこまでじゃなくっても、毎日ふつうに生きていくこともがんばりのひとつだし、ふつうに暮らしてる大半のひともやっぱりかっこいいのだ。

わたしのいちばんの推しは、わたしだ。
わたしをいちばん推してくれるのも、わたしだ。
がんばれがんばれ、わたし。
そうでなければならないと気がついた。
好きなものをわたしのいちばんにしてはいけないんだと。それは依存だと。
推しを思うように推せなくなったときによりどころをうしなうような、危うい愛しかたはすべきでないと。
もっと自分の人生を生きねばならないと。

40を過ぎて、ちゃんと生きたいという気持ちがものすごく強くなった。
これは生への執着だろうか。それとも責任感だろうか。あるいはあきらめの境地だろうか。
いや違う、たとえ社会や不自由に縛られていても、自分の心は自由だとわかったからだ。
だから、推しを推せずとも、自分を推して生きていく。