うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

変わらないでいることを

タップダンスシチーの話題を小耳に挟んだ。
いや、目にしたというべきか。
ついにきたか、と思った。
現役時代を見られなかったけれど、見られなかったからこそ、ずっと憧れていた存在。
違う性別と姿形にされたのはやっぱり受け入れられなかった。
馬は娘じゃない。
いくら信念を持ったところでウマ娘というコンテンツはもう広く受け入れられている。
競馬界隈とあのコンテンツが並走していく前提に、世界はなっている。
だからそれ以前の価値観はどんどん忘れられていくんだろう。
想像以上のスピードで、今この瞬間にも世界は変わっていっている。

アスリートである競走馬をコンテンツ、キャラクターとして愛でるような風潮になじめないでいる。
ツイッターのトレンド欄に(馬名)ちゃんと挙がるのにも、ファン経由で広まった愛称をメディアがふつうに使うようになったのにも、なんとなく違和感を覚えてしまう。
体感としてここ数年でファン層もかなり変わったから、もはや止まらない流れだったんだろう。
SNSの普及と、馬をキャラ化したコンテンツが公式に世に出て成功したのとで、競馬への触れられかただったり発信、表現のしかたが変わっていったのはごく自然な流れだった。
ただ、それ以前の文化に慣れ親しんできた自分が、それ以後の文化になじめないというだけのはなしで。

くるべきときがきた。
きてほしくなかった。世界が変わるのがずっと怖かった。
嫌になって、もう居られなくなると思っていたから。
受け入れられないのなら自分が去るだけだと思っていたから。
でも不思議なことに、わたしはまだ競馬を観ている。
ちょっと遠くにはなったけれど、適切な距離感でつきあっている。
嫌にも嫌いにもなっていない。
情熱はだいぶ落ち着いたけれど、愛は変わらず心の中にあるままだ。

変わってしまった世界はもう元のかたちには戻らない。これからも変化しつづける。
世界が変わっていったとき、一緒に自分も変わらなきゃならないのだろうか。
いや、そんなことはない。
自分は自分のままで、信念を曲げずに、誰も何も傷つけずに、好きなものを好きでいられる道があるはずだ。
もともと競馬はいろんなファンを受け入れる懐の深いジャンルだった。
その中のひとつにたまたま受け入れられないものがあったからといって、べつに争ったり、否定したり、身を退いたりする必要もなかった。
そんなことは夢にも思わなかった。ただ我が道をゆくだけ。
今までずっとそうだった。そこは少しも変わらない。それだけの自由がいつもあったから。

競馬って自由だ。
広くても狭くてもいい、深くても浅くてもいい、愛しかただって人の数だけある。
そのぜんぶに触れなくてもいい。好き嫌いだってあるだろう。
だから、変わりゆく世界の中で、変わらないでいることを選んでもいい。
わたしの変わらないものは心だ。