うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

「でも結婚できてるじゃん」と向きあう

苦しいときに発した言葉が、未来の自分を苦しめつづける呪いとなってしまった。
あれから何年も経つ。
もう今年限りで終わりにしたい。人を刺してしまったことも、刺し返された傷のことも、もう赦したい。

そもそも、なぜ当時のわたしは結婚しているすべての人に「できてるじゃん」と思っていたのか。
「ふつうに結婚できて、パートナーや子どものいる生活を得てるのに、これ以上いったい何を望むのか」という気持ちがあったからだ。
「ふつうの幸せを得てるくせに、悩むなんて、ずるい」みたいな感情が正直あった。
わたしにとっての悩みが「ふつうの恋愛や結婚を心から望めない自分を異物のように感じて赦せないし、誰にも赦されない気がしている」ことだったから。
ふつう、ふつう、ふつう。
ふつうになりたかった。
ふつうという呪い。ふつうってなんだ。
多様性の時代にふつうもくそもないと頭ではわかっていたのだけど。
たとえ自分が望まないことだとしても、事実わたしは「結婚できなかった女」で、ふつうじゃないのだと自分で自分をジャッジしていた。卑下していた。
そして「ふつうの人たち」に対して卑屈になっていた。思いつめてしまうのをやめられなかった。
親不孝が後ろめたかったからだ。

だけど最近こう思えるようになった。
結婚も家庭も、幸せと一緒に「重い悩みを得る」ことでもあるから、「幸せなくせに」はおかしいよなあ、と。
結婚して家庭を持った人は得て、結婚しなかったわたしは得なかった「幸せと悩み」。
どっちがいいだろう。
そんなの、人それぞれ、人によるとしかいえない。
選んだ、選ばなかった、というだけの話にすぎない。

わたしはやっぱり結婚したいとは思えなかった。子どもを産み育てたいとも思えなかった。だから選ばなかった。
人に選ばれなかったということでもあるんだけど、まずわたし自身が人を選ばなかった。誰かを求めたり、寄り添ったり、心を開いたりしてこなかった。そういうやりとりを他人に望まなかったから、そもそも結婚や家庭がはなから選択肢になかった。
それらを望めるわたしであればよかったのかな。でも、これがわたしだ。
わたしがわたしになったのは両親を見てきたからだ。
関係が破綻して離婚した両親を見ていて、結婚したいとは少しも思えなかった。
不倫してよその家庭を選んだくせにわたしに執着しつづける父を見て、男性とパートナーシップを築こうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
女手ひとつで育ててくれた母を敬愛し感謝をしてもしきれないけど、わたしは母のようにはなれないし、けれど母の娘だから、結婚してもいずれ離婚を選ぶだろうなという確信もあった。
お互いさまだと思う。親不孝でもなんでもない。なるべくしてわたしになったのだ。
それでも残る後ろめたさは、年老いていく母を看取ってわたしひとりで死ぬことでチャラになるだろう。
それでいいやと、もといる家族と生きていくことの難しさが重みを増していくことで、ようやく思えるようになってきた。
この暮らしと人生を選んだのはわたし。
結婚して家庭を持った人が選ばなかった「幸せと悩み」を得て生きている。たったそれだけのこと。

「でも結婚できてるじゃん」。とても乱暴な言葉だった。
言うべきではなかったけど、吐き出さなければ苦しくて息ができなくて死んでいた。きっと。
「でも」じゃない。選んだのだ。
「できてる」じゃない。したか、しなかったかだ。
これを禊とする。今年限りでどこかの誰かと、自分にかけた呪いを解く。