うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

今年も、ネモフィラ

すっかり春の恒例です。
長居植物園へ行ってきました。
ちょうど見頃を迎えて、しかも本日は晴天。
開園前から人がつめかけるつめかける。

 

青い花って素敵。

 

白い花も可憐。

 

藤棚もいまが盛り。

 

ネモフィラとの饗宴をおさめたかったのだけど、人が多くてうまくいかなかった。

 

きょうも、いつものデジカメとiPhoneの二刀流で。

iPhoneはよりあざやかに、くっきりと写す。

 

デジカメはやわらかく、繊細に写す。
どっちもそれぞれに得手不得手があり、それが味でもあって、わたし的にはアリ。
近くのものはスマホで、遠くなったらデジカメでいいかな。
手を伸ばしたら届く、手の中におさまる幸せでいいかな、わたしは。

 

 

 

写真って難しい。
見えてるものをそのまま撮るのは誰にでもできる。
魅力的な写真っていうのは、なにかプラスアルファがあって。
いわゆる感性とか視点とか、唯一無二を切りとる能力。センス。
わたしにはそのプラスアルファが、写真を撮るセンスがないのだとわかってから、撮ることが少しつらくなった。
なんにもないただの人が、見たまんまの写真を撮ることに意味を感じられなくなった。
だって、わざわざ自分が撮らなくても、ほかのどこかの誰かが何十倍何百倍も素敵に撮ってくれてるのだもの。
それも競馬場から遠ざかった理由のひとつだったりする。

写真を撮るのは自分自身のため。
いずれゆるやかに忘れていってしまうであろう自分に、目に見えるかたちで思い出を残すため。
花も鳥も、家族も、競馬場にいる人馬も。
愛するものたちを覚えていたくてシャッターを切る。
写真だけでなく、あのときあの場所でカメラを構えた感覚もまた思い出となって記憶に残る。
それでいいじゃないか。いいと思っている。
でも、ときどきそこが揺らぐ。

本質を見失ってしまうのは、他者を介在させるから。
SNSにあげる。人が見る。いいねがついたりつかなかったりする。
評価されるためじゃないとわかっているのに気になってしまうというのは、ほんとうにありがちだけどよくない。
SNSは届かないものが近くにあるように見えてしまう。
なんでもできて、どこへでも行けるような気持ちにさせられてしまう。
なんにもないただの人である自分にもなにかがあって、なにかができるんじゃないかと錯覚してしまう。
そんなことは、あったりもするし、なかったりもする。
自分の中のなにが、いつどこで誰の琴線に触れるかなんて、出してみなきゃわからないからだ。
でも決して「それ」を得たくて撮って出すわけじゃない。

わかちあいたい。
見てほしい。知ってほしい。わたしの好きなものを。
わたしだけでなく誰かの記憶の片隅にでも残ってくれたら嬉しい。
自分自身のための幸せな自己満足。
好きなものを好きなように撮る。
ひとりでも、シェアしても、なにかを見て撮って、思い出を残していく。