うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

楽しい時間はもうおわり

家族が事故に遭った。新年早々。
さいわい命に別状はなくて、相手のいない単独の事故だった。
ちょっとのあいだ体が不自由なだけ。ちゃんと治るし本人もいたって元気。
だけどこの事件は日々を惰性で暮らしていたわたしをたいへん驚かせ、不意打ちの往復ビンタのごとき痛みと衝撃でなかば寝ぼけていた目を覚まさせてくれた。
生き方を変えようと思った。

なにもしない。しばらくは。
ただ生きて、暮らしを守って、家族を助けていくだけの生活をしようと思う。
欲しいものも、行きたいところも、やりたいことも、しばらくのあいだは封印。
少しのあいだ、生きていくことに専念しよう。

歳をとるごとにいろんなことにあきらめがつき、執着をひとつずつ手放して、それでも生きづらさはなくならなくて。
ままならないつらさをほんのいっときでも忘れるために趣味や、食べることや出かけること、楽しいことに打ち込んでいたように思う。欲しいものを欲しいまま手に入れてもきた。
若さにかまけて、時間とお金と情熱を注ぎ込んできた。
それはとてもとても楽しい時間で、経験で、思い出だった。
だけどそろそろ、楽しいことを追い求めてなんとなく暮らしていくのはもう終わりなのかな。ようやくそう思えた。
すべての情熱が尽きようとしているいまこそ、生き方を変えるチャンスじゃないのかと。
家族を助けなければならない事態に陥ったいまこそ、これまでの生き方を省みあらためるタイミングじゃないのかと。
わたしは母を看取ってひとりで死ぬつもりでいる。そのための準備もしていかなければならない。

わたしが生涯をかけて向きあっていくべきものは、生きづらいこの性質と、それゆえの貧困だ。
いまさら転機が訪れて豊かになるなんてありえないし、なによりここから自分が変わって生きづらくなくなることもないだろう。
結婚も望めなかった。誰かと一緒に暮らしたいという願望がなかった。
人は好きだけど、人間は苦手だった。
人間がうまくできなくて、生活は悪くもよくもならない。
だけど学歴も資格も、うまく人間をやる能力もない独り身のわたしがどうにか生きていくには、勤め人をやりながら地道に稼ぐしかすべがない。
まして母親を引き受けて一生を全うしようというのだ。簡単にはいかないに決まっている。

わたしには趣味があった。好きなことがいっぱいあった。
だけど暮らしと人間をやるのがうまくいかないことが、それらへの情熱をゆっくりと冷まさせていった。
このところ、お金は常になかった。ジリ貧だった。
物理的にも精神的にも楽しむことができなくなっていった。
貧しいとはこういうことなのだ。
それはわたしに能力がないからだけど、いちばんよくなかったのは「生きるのがつらい」といいながら、楽しいことで蓋をして、心を麻痺させて、だらだらとモラトリアムのような時間を浪費してきたことだ。
しかしもう若くはない。
あとは老いていくだけの身で、無事に一生を終えることを考えなければならない。

わたしの半生は、失敗でしかなかった。
大人になることができなかった。
一人前の人間にはなれなかった。
だからこそ、せめて無事に生き抜いて一生を終えなければならない。