うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

結婚は、コンプレックスだったよ

わたしのような変わった独り者の書いたものを、なぜか読んでくれる人たちがいる。

これはほんとうにただの純粋な疑問なんだけど、わたしの書いたものを読んでいる人は体感的にも既婚者率が高い。それが不思議。そういう年代だから、なんだろうけども。
ありがたくも共感してもらうたびに、喜びとともに「でも、みんな、してる側の人なんやな。あの人もこの人もしてるんやな、結婚を」という感慨がふと湧く。
むなしさとかではない。うらやましいとかでもない。もちろん、いやな気持ちでもない。
ただ「してる側の人が、こんな人間のこんな文を読んでおもろいんかな?」という素朴な疑問がずっとあった。

謎に感じるたびに、わたしは「結婚したいな、人生のパートナーが欲しいな、自分の家庭を築きたいな」と人並みの感性を持ちそう望めなかったことにやっぱり傷ついていたんだなあと思い知る。
望んでも縁がなくてできなかった、というのならまだ納得がいく。
だけどわたしはついに家族以外の他人には心を開けなかった。人を心から信じることができなかった。
他者と共に生きたい、暮らしたい、密接なやりとりをしたいとはどうしても思えなかった。
どんなに好きな誰といても、いつも最後の壁がとりはらえなかった。
人といると気を遣う。緊張する。すり減る。疲れる。わたしでなくなる。
他人に興味関心を抱けない。そうすることはひどく不躾であるように感じるから。
人の内面に深く立ち入ることは相手を傷つけたり居心地の悪い思いをさせることになりそうだし、わたし自身が人から深く立ち入られるのは苦手だ。なぜなら人に傷つけられたり、居心地の悪い思いをしてきたから。人に詮索されるのが怖かった。
表面上の一線を越えて人と関わるのが怖い。
人といるのに向いていない。それはわたしが人と深く関わりパートナーシップを築くのに向いていない、ということだ。
若い頃からわかっていたこと。はじめから望んでいなかったこと。
だから求めなかった。得なかった。しなかった。それだけのこと。

わたしは、自分の人生の中に他の人を入れるほど誰かに心を開くことができなかった。
それは自身の人間として欠落した部分であり、人並みの感性をはぐくめなかったわたしの落ち度だと思っていた。
「もっと無邪気に人を好きになって、自分の人生に他者を求められる性分だったなら」と思わなくもなかった。
こんな自分自身がいやで、勝手に傷ついていた。
持っても望んでも欲してもいないものを数えて悩むのは不毛なので「これがわたしだ」と赦すことに決めた。年齢を重ねたからこそたどり着けた答えだった。
わたしは自分の人生において他者を求めなかった。だから家族を守ってひとりで無事に死ぬ。そのことが人生最大の目標であり目的になった。
それさえ成し遂げられれば他には何もいらない。

……いや、いる。欲しい。
好きなものはたくさんある。
野球も自転車も観たい。もう手放したけれど競馬の行く末も見届けたい。
漫画も小説も読みたいし、旅行だってしたい。
スポーツバイクに乗ってみたい。綺麗な景色を見て、おいしいものを食べたい。
この世界はたくさんの好きなものであふれている。したいこと、みたいもの、触れたいものがありすぎる。
好きなものを介してなら苦しむことなく他者と関わることができる。
だからきっと、これがわたしのやりかたなんだろう。結婚してるしてないは関係なかったんだ。わたしも、他の人も、きっと。