うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

「趣味:競馬」卒業、もうひとつのわけ

「この人たちとはわかりあえない」。
そう痛感させられていったのも大きい。
「この人たち」というのは、仲のいい友人同志やフォロワーさん、大多数の分別あるファンを除く「ちょっと過激な人たち」のこと。
二次元から入った新規ファン(ウマ娘はぜったいに受け入れられない)。
前からもいた迷惑な人たち(頭おかしい人はどこにでもいるけど、金を賭け命が懸かるぶん本質的なやばさが増す気がする)。
熱意ゆえに厄介さんと化した狂信者のような人たち(あなたとわたしはちがうのに、排他的になられたり、同じ知識や取り組み方を暗に求められるのは息苦しい)。

あるとき友人だった人に「無理やり走らされるお馬さんがかわいそう」と言われた。
あるとき同居人に「ゴミを散らかしたりするファンがいる世界を美しいとは思えない」と言われた。
きっぱりとした否定と軽蔑の言葉に、まず心が小さく欠けた。
わかってもらうのは無理。言葉を尽くすのも無駄。
人は好きじゃないものに最低限の許容以上の理解は示せない。
許容以上の気持ちの寄り添いを求めるのは単なるわがままだったと気がついた。
以来「わかってもらえなくても、好きだってことを赦してさえくれれば」と納得してはきたけれど、いろんなことがあるたびに意識は「そこ」へと戻っていった。
みんながみんな、そうじゃない。
けれど。
何も知らない人たちから見ればわたしも「過激な人」に見えているのかも知れないなあ。
ふと我に返ると、今までだましだまし見てきたものが「ありのまま」に見えてきたのだった。

わたしの愛したあの世界は美しい。
あの美しさに命を救われ、もう一度生きてみようと思えた。
だけど世界というものはだいたい表裏一体で、美しくない部分だってあったのだ。はじめから。
競馬というもの、競馬が引き寄せ抱え込むものたちがはらむ暗くて黒い部分を、わたしだって「ここは嫌だなあ、好きじゃないなあ、赦せないなあ」と内心は思っていた。わたしの好きなものを否定した友人や同居人と同じ目線で。
中に入ったから否定ができなくなってしまっただけ。否定ができないのなら赦し受け入れるしかない。だけど、それもできないままでいた。
疲れと幻滅の蓄積。
わたしはこの矛盾に疲れていった。
ゆっくりと、時間をかけて、欠けた心が折れていった。

どんなに愛していても、すべてを赦し受け入れることはできない。
問題や矛盾と向きあい、完璧な答えを求めることはできない。割り切ることだってできないだろう。そうする必要もない。
若かったわたしは、愛と情熱があれば不可能はないと信じていた。自ら成し遂げようとした。そしていろんなことに打ちのめされて、幻滅と失望をくりかえして、疲れはててしまった。
わかりあえないことに。なにもできなかった自分に。
そう認めることができた頃にはもう熱が尽きていて、変わらぬ愛と情だけが残った。
だからわたしは競馬から離れた。趣味としての競馬をあきらめて手放した。かかわることを一切やめた。
遠くから見る競馬は、あいかわらず清濁を併せ呑んでどこかへ進みつづけている。
美しいと思う。美しくないところもやっぱりあるよなあと思う。それでいいのだと、いまは思える。

 

sizu.me

追記。