うまいこといえない。

うまいこといえないひとがつたないなりに何かを残し誰かに伝えたいブログ。

なんとなく、ツイッター

否定批判をされるのが、私は何よりも怖い。
好きで文章を書いているくせに押しには弱く、頭の回転が鈍いので物事への理解が遅いし、議論も苦手だ。
だから他人に対しても、自分がされて嫌なことは絶対にしないようにしている。
こっちのこともある程度許してほしい、という気持ちの裏返しでもある。
なんでもまず見聞きしてみて、たとえ受け入れられなくても、深入りせずにただ通りすぎる。
趣味界隈において自分の萌え(好き)は他人の萎え(嫌い)、逆もまたしかりだから。

ところがあるとき、なんとなく疲れていてタガが弛んだんだろう。
普段は絶対言わないようにしていたことをポロッと洩らしてしまったていにして、自分にも当然ある好き嫌いについてつぶやいてみたくなった。
いっつもこんだけ黙ってるんだからたまにはいいよね、と。
魔が差したのかもしれぬ。
ほんとうに他愛のないつぶやきだった。
否定批判みたいな大げさなものではなくて、「私はこれ、実はあんまりなんだー」程度の。
偶然なのか、私の発したささやかなトゲが相手の良心を刺してしまったのか。
いったん閉じて次にホームを開いたとき、どこかの誰かにリムーブされていた。
フォロー関係の増減を逐一通知するサブクライアントを入れていたのがまずかった。
(FF数や関係への執着からではなく、単に多機能で使いやすくタイムラインの取得に強いから使っていただけなのだが)
それがとどめのひと突きだった。
一瞬チクッとしただけの、いつもなら傷にもならないようなダメージだった。
ゲームでいうところの、HPをほんの1ポイント削られたような。
しかしそのときの私は満身創痍で、残りHP1状態だったのだろう。
ゲームのキャラはステータス的には死にかけていてもビジュアルはピンピンしている。まさにあんな感じだ。

私は、自分が傷つくより他人を傷つけたり不快な思いをさせるほうが怖い。
でも、自分にはチクチク刺さっていた。
遠い場所で起こっている争い事だったり、決して綺麗ではない言葉だったり、こちらに投げられたのか反応すべきかそうでないのかわからない空中リプライだったり、なんの接触もない相手からの謎の先行ブロックだったり、激しい喜怒哀楽だったり、たくさんの異なる思想や主義主張だったり…
深入りせずに通りすぎると達観しながらもどこかで真に受けてしまって、心の中でマジレスを繰り返しながら、少しずつ毒として取り込み続けていたのだ。
でも、他人のことをチクチク刺したくはないと口を噤んで平静を装い続けてきた。
でも、でも、でも、を繰り返しながら。

かくして、この針のひと刺しでこれまで張りつめていた内なるガマン風船が割れてしまった。
致命の一撃なんて得てしてそんなもんだ。
それ自体に大した意味も殺傷力もないけれど、プッツンいくときは、たまたまうっかりの流れ弾がだめ押しになってしまうのだ。
たまりにたまったツイッター歴7年数ヶ月分の内なる毒素の存在に気づいたとき、私はけっこうがんばっていたのだなぁと思い知らされた。
そして。

ほかのみんなはけっこう好き嫌い言ってるのに、私が言うのはだめなんですね。
そうですか。ですよね。
ああそうか、もういいや、もういいです。
ああ、そういえば、しんどいんだったなぁ…。

その瞬間すべてを否定されたような気持ちになって、いままで他者や多様な価値観を容認してきたことすらただの偽善で自己満足で不十分です~!はいダメ~ぜんぜんダメ~、あなた失格~!とでも言われたかのように感じてしまった。
この低俗な揶揄も自らの弱った心が生みだしたセルフツッコミである。
自分で自分に疲れ、くたびれはてた末の自爆であった。

寝るとき部屋のあかりを落とすときのように、心安らかだった。
もののついでにインスタグラムも削除した。
どこの世界においても、誰かひと一人いようが消えようが、大してなにも変わらない。
30日間のあいだに戻る気にならなかったらそれはそれでいいかなという気持ちだった。
この期に及んでまだ戻るという前提があったのは、目前に新潟ジャンプステークスがひかえていたからだ。
好きな馬の晴れ舞台がとても楽しみだった。
もうツイッターはいいかなと半ば達観の境地にいたものの、好きな物事についてはずっとブログで触れていくつもりだったし、書いたからにはやっぱり誰かに読んでほしい欲求はあった。
誰かとは、これまでの縁でつながった人たちだったり、同じく競馬が好きな人たちだったり、いろいろだ。
極端なはなし、誰だっていい。
喜びやワクワクを共有したい人たちがいる。
まだ見ぬ誰かに何かを伝えたい。
それと同じくらい、誰かの何かを見て聞いて感じて知りたい。
…そうだ、私がツイッターをしていたのは、このためだったのではないか。

新潟ジャンプスステークスの出走馬が確定した木曜日に、なんとなく復活した。
なんとなくやめてからたったの3日が経っていた。
ここは“ツイッターから消えてみた”というよりも、“自分の中からツイッターを消してみた”と言い表したい。
ツイッターは居場所ではなくツールだ。
寄りかかる度合いはそれくらいにとどめておきたい。
好きでやるんだから、理由づけなんて、なんとなくくらいでちょうどいい。
なんとなくアカウントを消して復活させた、たったそれだけのことで価値観なんてそう変わるものではないし、いままで通り「否定批判しない!自分の萌えは他人の萎え(逆しかり)だからおおむねのことは許す!」を地で行くだろうけれど、たまにはうっかり本音を洩らすことも、なんとなく消してみることもできるししてもいいんだという実感が得られただけでももうけものだったとしておく。
誰かが許してくれなければ私が私を許すことにする。

なおサブクライアントは、はむーんからツイタマに替えた。