うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ひとりでも、誰かとともに

自分の趣味に他者を介在させるか否か。
趣味に他人は要るのか問題。
誰かがいたなりの楽しさと難しさが、ひとりならひとりの自由と孤独がある。

いつでも人とつながることがあたりまえになったこの時代。
もともと人間やるの向いてないわたしは、常に知りあいに見られている、どこかの誰かの一挙一動がシェアされてくる状態にちょっと疲れてしまった。
見える自分を意識するのも、見えてくるものを見るのもわずらわしくなってしまった。

わたしの趣味はスポーツ観戦だ。
が、その側面についてまわる、ファンを自称する無礼だったり非常識だったり押しつけがましかったり、なんだか言葉の強い人たちを目にしつづけるのは好きじゃない。
競馬場へ行くのがちょっと怖くなってしまった。
新たに興味を持った世界にもなかなか足を踏み入れられずにいる。
プロ野球を観はじめて何年も経つのにまだ球場へ行けていないのは、現場とファンを実際に知ってしまうのが怖いから。
これ以上知らなければ、いやになることはない。理解を深めたいのに怖い。とても矛盾している。
好きなのに、興味はあるのに、世界は面倒で厄介だ。
こんなにも他者を擁する趣味の世界がノイジーな場所ならば、わたしはもう自分の気持ちだけでいいや。
今はわりと長くいた競馬界隈からそれとなく離れている。

思い起こせば現地でもネットでも「ええ〜…」と感じたり、多少なりとも複雑な気持ちになることは少なくなかった。
好きで好きでたまらなかったときは「まあそんなこともあるか〜、そんな人もおるか〜、かまへんで〜」でごまかせていたこと。
ちょっと離れてみたら「やっぱりおかしいよね、それはやだよね」と素直に思えるようになった。
自分の気持ちに折りあいをつけられていただけ。好きで好きでたまらなかったから、違和感にフタをした。
だけど疲れは蓄積する。いやになったらだんだんといろんなことがいやになってくるものだ。人間って。

いろんな人がいる。
魂のレベルで合う合わないはある。
同じものを好きなみんなの足並みを揃えるのってどだい無理なはなし。
不揃いであることを赦せないのなら楽しいおつきあいは難しい。
趣味も人間も、合うか合わないか、赦せるか赦せないかの二択だ。
どちらも難しかったわたしは、だからひとりで想うだけでいいやと達観することにしたのだけど、同時に誰とも出会えなくなってしまうということでもあって、今一度「趣味に他人は要るのか問題」と向きあってみることにした。
要らないと言いきってしまうのは淋しい気がするから。なぜなら出会う喜びも知っているから。

そんなことを考えていたら、#みんなの約8年前の写真を見せて なる話題が流れてきた。
わたしの2015年といえば、なんといってもアップトゥデイト号だ。

自分は撮るのがへたくそでセンスがないと悟ってしまってからなんとなくカメラを持ち出すことも減ってしまったのだけど、好きで楽しくてたまらなかった頃に撮った写真はどれも技術うんぬんよりも対象へ向かっていく気持ちがこもっていた。
今のわたしは、昔のわたしに気圧されてたじたじとしてしまった。まるで自分じゃないみたいだった。
そんなわたしにたくさんの同志ができたのは、なにを隠そうこの頃だった。

昔のわたしのほうが、おもしろくて楽しい人間だったのだろうか?
でもそのぶん、愛ゆえの息苦しさや強い言葉を与えてしまった人たちもいるだろう。
今のわたしは、気力も情熱もおとろえてつまらない人間になってしまったのかもしれない。
でもそんな自分のことは割と気に入っていたりする。
少なくともあの頃よりかは心おだやかにいられているから。
何もかもが好きで楽しかった頃は、赦せないことが多かった。
赦せなくてイライラしたり、いちいち落ち込んでばかりだった。
思い描いたことが思ったようにいかないのがしんどかった。
変わったのは、歳をとって、コロナ禍を経て、心がいちどポッキリと折れてしまったからだ。
サウンドキアラのヴィクトリアマイルを二年連続で観に行けなかったことが深い心の傷となったあと、やがて自分への赦しになった。
しょうがなかった。なにもかも。それでいいのだ。それだけのこと。
それで世界が終わるのでも、自分が死ぬのでも、愛するものの輝きがそこなわれるのでもない。
どうやってもどうにもならないことを呪わない。世界を恨まない。人を憎まない。
なにかをコントロールしようとしない。
うまくいかないことをいつまでも嘆かない。
赦す、あきらめる、受け入れる。無理なことは無理だと。
だけど人生はつづいていく。好きなものは好きなままで。わたしはわたしのままで。
趣味にすべての意味を持たせてしまったら、生きていくための荷物としてはあまりにも重たすぎる。
わたしは重たかったのだ。今までずっと。
その重さにおそらく惹かれた人がいて、引いた人もいて、そしていくらか軽くなった今、趣味と向きあうことをいちからやりなおそうとしている。
人間向いてない自分が、人と向きあうとはなんぞやと考えている。

あの人や、この人のことを、いまだに思い出す。
若くて元気だった頃に思いがけず傷つけてしまったり、わかりあえず離れてしまった人たち。
今ならすれ違うこともなかったのかも知れないけれど、今の軽いわたしでは昔ほど多くの同志とは出会えなかっただろう。
誰かと出会い交流することは、心がぶつかりあうことでもあって、楽しい反面とても難しかった。反省することばかりで少しもうまくできなかった。
この難しさやうまくいかなさは、恋人や伴侶、人生のパートナーを得ることと同じかもしれない。
どちらにも得がたい幸福があって、どちらにもどうしようもない地獄はある。
自分にはどちらがよりが向いているかだけ。
わたしは一度ひとりになった。誰かといる幸福と地獄を知った状態で。
わたしはもともと、淋しさは感じない人間だ。
けれどもこうして時々こんなことを書き散らして、誰にとはなしに伝えようとして、タイムラインに流している。
それが「他者を介在させる」ことでなくてなんだというのか。
ひとりだけど、ほんとうに孤独だったことはなかった。
わたしが見つけて、わたしを見つけてくれた誰かが、それとはなしに、この世界のそこらじゅうにいた。