うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

簡単に言いあらわされて、たまるか

いちばん好きな大河ドラマ麒麟がくる」でいちばん好きな台詞は斎藤道三の「言葉は刃物ぞ。気をつけて使え。」ですこんにちは。

昨日の話の余談をちょっと。
なんでもかんでもカテゴリ分け、タグづけ、名づけをする傾向が、どうもツイッターが世の中に溶け込むにつれて強くなってる気がしている。ここ十数年のあいだずっと。
わたしにとってはそれがずっと怖いことのように感じられていて。
たぶんみんな、わからないことが怖いのだ。
わからないことがわからないままだと不安で気持ち悪いのだ。
そして物事を一言で言いあらわせるというのは今や、賢くて面白くてかっこいい人の象徴なのだ。
カテゴリで仕分けする。タグをつけて片づける。名前をつけて呼ぶ。
たとえば人の気持ちも物語のシチュエーションも、病気だったり世の中の風潮だったりも、この世のありとあらゆることはたぶんそんなに単純に言葉で言いあらわせるものではなくて、それをぎゅっと一言に押し込めてしまうのはちょっと乱暴だなあとずっと感じている。
決めつけることは、人間が相手なら尊厳を無視して傷つけることでもある。人間じゃなくても同じことが言えそう。
名づけが呪いだと言ったのは「陰陽師」の安倍晴明だったか。うろ覚えだけど。
たしかに名前は対象を縛る。もう、それにしかなれなくなる。

昨今「推しが尊い」って言ったら、もうそれだけでその人がどんな気持ちでどういう状態にあるかは大多数に伝わる。
でもそれって、ほんとうだろうか。
ほんとうのことはきっと、もっと心の深いところで、もっと複雑に、かたちにならないままざわざわと声をあげている。
「推し」は尊敬するスポーツ選手かもしれないし、愛してやまぬ俳優や歌手かもしれないし、あるいは好きな競走馬かもしれない。
尊い」のはその人の作品が好きだからかもしれないし、パフォーマンスに惹かれるからかもしれないし、ひたむきに走る姿に感銘を受けるからかもしれない。
そういった言葉にしようとすればうまく言葉にならない感情のひとつひとつを、たった一言に押し込めてしまうのは、なにか途方もなくもったいないことのように感じる。
いいんだけど、いいんだけれど、できればそれをあなたの言葉でききたい。

わたしはたぶん、言葉の世界においては強者だ。
うまいとか下手とかそういうことじゃない。いや下手くそだ。
ただ、ずっと言葉を尽くしてきたから、ほかならぬ自分自身の状態や感情を言いあらわすことにおいては心得がある。
他の人や物事についてはからっきしだけど、自分のことは自分がいちばんよくわかる。だから言えるし書ける。
だからこそ肌で感じるのだ。
言葉は、使わなければ衰えるし忘れる。
文章は、書かなければ書けるようにならない。書くことを怠れば、すぐに衰えるし忘れる。
口ずさみやすいフレーズも、タグづけされた単語も、テンプレート化されたうまい用語も、便利な略語も、パズルのようにあてはめるだけで何かを主張できるのだから簡単だ。
人は簡単なほうへ流れていく。
わたしだって、できるだけ使わないといいつつも便宜上「推し」という言葉はたまに使ったりする。
でもどういうふうに「推しが尊い」のか、言葉を尽くすことだけはやめない。
それはやっぱり簡単には言いあらわせないからだ。ちゃんと自分の言葉で語りたいからだ。それをあきらめたくないからだ。
好きだから。自分の心が大切だから。

なんでもかんでも決めつけなくっていいじゃない。そう簡単に言いあらわせないのが人間で世の中だよ。
なんでもかんでも決めつけてしまったら、もうそれしかなくなってしまうよ。
このままだとみんな、巧みに言葉を操りながら、言葉を紡ぐすべを忘れてしまいそうで、わたしはそっちのほうが怖い。
今に語りあえる人がいなくなってしまいそうで。
そうなってしまったら、とても淋しい。