うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

生きていくための杖

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

ずっと、なにかしら書いている。
毎日じゃないけど、不定期に、それなりに長くつづいてるといえる。
胸の奥がなんともいえない感情でつかえて苦しくなってきたときに、なにかしら書く。
そういうふうに生きてきた。
わたしの人生には書くことが常に寄り添っていた。
たぶん他の人なら誰か身近な人に話すことで昇華するんだろう、こういうモヤモヤは。
でもわたしは人と話すのが苦手。人と関わるのが苦手。人に頼るのが苦手。
自信がないから。他人が怖いから。家族にさえ気を遣ってしまう。
つまり人間をやるのがめちゃくちゃ下手くそということ。
「人間に向いてない」「社会に向いてない」「生きるのに向いてない」とはわたしの思考癖みたいなもので、「こんなんでも生まれてきた以上は生きてかなきゃならないんだよなあ」と思いながら、生きづらいながらもなんとか暮らしている。
それはきっと、書くことが補ってくれているからだ。
人と話すことと、人との関わりを。

わたしは自分のことしか書かない。
自分が思い感じたことしか書けない。
昔から他者や世界にさほど興味がない。興味のあることにしか興味がない。
たとえば、いまの興味はスポーツ。競馬と野球とサイクルロードレース
でも踏み込んだスポーツの話をしたら、なんとなく、なんらかのコミュニティに組み込まれるでしょう。
なんとか「クラスタ」なんて古くは言われてたようなものに、なんとなくひとくくりにされる感覚がSNSにはある。
いつからかそういうことに気が重くなっていってしまった。
いわゆる「◯◯の人」になりたくない。いまはもう。
「あの推し」を推す人とか、人一倍熱意のある人だと誰かに認識されることが昔は嬉しかったのに。
書くことがわたしをそういう感覚に推しあげていた時期があった。
それは気持ちのいいことではあったけれど、一転したきっかけはやっぱりコロナ禍だったように思う。
自分の努力や熱意ではどうにもならないことに心が折れて、わたしはすっかり情熱をうしなってしまった。
願いつづけて叶わないことがつらくなってしまった。年齢的なものもあったし、人生の岐路でもあったのだろう。
だんだんとSNSで◯◯の話をしない自分自身が後ろめたくなっていった。◯◯というのは、まあ競馬なんですけど。
だからいったん退いて手放した。
いまはXになってしまったTwitterによりどころを求めすぎていたのだと自覚したわたしは、ちゃんと文章を書くことにした。
タイムラインで趣味の話をしなくなった。そのかわりに自分の気持ちをブログに記すことにした。
ほんとうに心に思っていることは、読みたい人がリンクを踏んで読んでくれればいい。
そんな人はほんのひと握りだろう。
趣味の話をしなくなったわたしを必要としない人だっているだろう。
人の心の話なんて趣味の話にくらべたら明らかに楽しくないものだから。
でも、それでいいのだ。
本来、読むことも書くことも人を選ぶ。誰もが自由に選んでいいのだ。
急流のようなタイムラインとはまた違う密度と、重さと、ゆるやかな時間の流れのほうがわたしには合っている。
そういう場所は、いまはもうブログだけになってしまった。

いくら人間に向いてなくっても、人はひとりでは生きていけない。
人と関わることが苦手なわたしは書くことで人とのつながりを得ている。
それができる場所がSNSだと前は思っていたけれど、案の定というか、ほんとうに人に本心を打ち明けられるのはブログだった。
転びそうになったとき杖になってくれたのは、いつだって文章を書くことだった。
こんなこというのもなんだけど、ブログというものはあんまり人には読まれないです。
だって重たいしめんどくさいし時間がかかるのだ、人の書いた文章と向きあうっていうのは。気を遣うし心だってすり減る。
画像つきツイート(いまはポストっていうのか、ぜんぜん慣れない)のほうが圧倒的に見られる。
でも見るのと読むのって違うでしょう、やっぱり。書くのと貼るのも違うでしょう、ぜんぜん。
わたしは書きたいし、読みたいし、読んでほしい。
反応がなくたって、わたしが書いて、どこかの誰かが読めば、人に話したことになる。
わたしにとっては絶対に必要なこと。
だからブログを書く。