うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

創作の中の不幸が苦手、というはなし

プロ野球選手の鳥谷敬さんが出るというので、下剋上球児を観た。
現代劇のドラマというものを久しぶりに観ながら、耳に入ってくる音と声の情報量、なによりいろんな人間の凝縮された感情の波がどんどん押し寄せてきて、うわあ刺激が強いなあと感じていた。
押しの強い人、無意識にわがままな人、人を振りまわす人、そういう人に翻弄される人を一時間強見ていて、なんだか異様に疲れてしまった。
わたしの感性が鈍ったのか、はたまた過敏になってしまったのか、それとも波長の問題なのか。
オラオラしながら野球をするトリさんはめちゃくちゃかっこよかった。さすが、オーラが違う。

いつのまにか、現代劇のドラマがまったく受け付けなくなった。
つらい思いや体験をしてる人をわざわざ見るのがしんどい。
最近は問題提起をテーマに盛り込んでくること多いから虐待、ハラスメント、ジェンダー、機能不全の家庭で育ったとか、そういう何かしんどいものを背負った人と必然的に毎週つきあっていくことになる。

似たような感じで、漫画も受け付けなくなってきた。特に恋愛や男女についての話。
性的な描写がほんとに無理になって、でもそういう題材の漫画ってほぼ例外なく盛り込まれてくる。
性暴力やセクハラ、モラハラは言わずもがな。
漫画って簡単に(簡単じゃないんだろうし覚悟して描いてる人もいるんだろうけど、氾濫してるって意味であえてこう表現させてもらう)性加害と性被害を描きすぎるよね。
前に大奥について語ったときも言ったけど、描くなら最低限でも注意書きは要るんじゃないかなあ。
男女が利害関係や上下関係みたいな不平等な状態ですれ違ったり傷つけあったり求め合ったりするのが苦手だ。対等であっても、惚れたか惚れられたかすると立場は変わってしまうから、恋愛における対等はほぼ嘘だと思っている。
結局つきあうかベッドインするか結婚するのがゴールでハッピーエンドとされるのも、あらかじめ察せてしまう。
純愛でも不倫はいやだ。
谷川史子さんが性描写に準ずるシーンと、不倫の話を描いたのはほんとうにいやだった。
あの話、まだつづきがあるんですね…。与はもういいから北別府さんの話が読みたい。はやく与を過去の傷から解放させてあげてほしい。

世の中のエンタメってセクシャルなものであふれかえっているよね。広告も過激だしね。
みんなそんなに人様の恋愛がみたいんだね。描きたいんだね。
わたしは他人に興味がないというかそこまで他人と関わりたいと思わないから、不思議でしょうがない。
あと家族に虐げられた娘が姉妹の身代わりで訳ありイケメンと政略結婚させられたけど溺愛されて幸せになりました〜家族も報いを受けました〜めでたしめでたし、みたいな漫画も家族に虐げられてる過程でとても悲しくなるからだめ。
どうも「やられてるほう」の気持ちになってしまうようだ。

創作物、創作主はなぜわざわざつらい目に遭った人やどうしようもないひどい人、凄惨な過去の出来事を創り出すんだろう。
でも創作ってそういうものか。
伝えたいことがそこにあるのなら必要なのか。
思えばわたしは、いわゆるスカッとジャパン方式が昔から苦手だった。
最後にスカッとさせるために極限までイライラモヤモヤさせられるやつ。
イライラモヤモヤさせられてる間、ずっとやられてるほうの気持ちになって苦しくなるし悲しくもなる。
ドラマや恋愛漫画は心への負担が重い。
そう気づいてから、そういうものたちをを避けるようになった。
大河ドラマが大丈夫だったのは、創作ではあるけど歴史に基づいてるからだったんだろうなあ。
あと時代が違うから今の価値観から切り離して考えられる。
オチが決まってるからそうそうおかしなことにならない、という安心感もある。
韓国ドラマが好きだった時期もあったかな。あれも自分の価値観でものを考えなくてよかったから観られたんだろう。
でも愛憎入り乱れたしんどい話が多いからいつの間にか観なくなった。

なんでこんな苦手なものだらけになってしまったのか、自分でもわからない。
若い頃はむしろ楽しんで創作する側の人間だったのに。
昔のわたしも、今のわたしみたいな人を、創ったもので無意識に傷つけていたのかもしれない。
大人になると経験が増えるぶん受け入れられないもの、赦せないものが増えていく。
それらと、自分の価値観と、向き合って折り合っていくのもまた大人なんだろう。
合うものを選んで、合わないものは触らない。
たとえ創りごとの中でも誰かが不幸でいる姿は見たくないから、わたしはリアルに逃げた。
いまはほぼスポーツとニュースとドキュメンタリーしか観ていない。