うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ふきげんのとりせつ

なんだか、みんな、怒ってるのである。
職場でも、家でも、なにかしら不機嫌な人がそばにいる。
ああそれで疲れてるんだなわたし、と、ひとりモーニングコーヒーを飲みながらぼんやりと思った。
カフェや喫茶店が好きなのは、周りがみんな知らない人だからだ。
ここなら誰もみんなわたしに八つ当たりしないし、わたしも誰かの顔色をうかがわなくてもいい。
「誰かと一緒」がしんどくなっていた。
自分はなんにも怒ってないのに、気がついたら、いつでもどこでも謎の怒りに巻き込まれてる。
なめられてるのかもしれない。
甘えられてるといえば聞こえがいいかな?

自分の不機嫌を撒き散らす人と一緒にいるのはしんどい。
仕事の進捗が思うようでないからといって、そこで怒って何の役に立つというのだろう。
そうされて他人がどう感じるとか、自分の言動がどんなふうに受けとられるかを、考えないんだろうか。
少なくともわたしは嫌だよ。
いつも不機嫌な人だなあと思われるのも嫌です。
わたしは怒りたくないし怒られたくないよ。
怖がりだから。
傷つけたくないし、傷つけられたくない。
怒りは人を傷つけるし、不機嫌は周りを疲れさせるのだ。
もうずっと、人の怒りと不機嫌で疲れてる。
そういう人たちに極力やさしく接しようと、これ以上ご機嫌を損ねまいと、ちょっとでも楽にいてもらおうと、めちゃくちゃ気を遣ってるからだ。
でも急になにもかもがばかばかしくなってしまった。
なんで自分のご機嫌すらとれない人たちのためにわたしがこんなにも疲れなきゃならないんだよと。
湧いてきた感情は理不尽に対する怒りだった。
ああ、やだやだ、怒りたくないのに。

怒りって、誰かにぶつけなきゃ消えないんだろうか。
不機嫌って、周りに撒き散らさなきゃ解消されないんだろうか。
う〜ん、そんなときもあるのかな。う〜ん、そうかも。……せやろか???
あんなふうにむきだしの感情を人にぶつけてる人を見てると、ものすごく不思議な気持ちになる。すごいなあとも思う。
わたしは人とぶつかることが怖いから。極力避けてることだから。
だから人とぶつかりそうになったら、わたしはひとりになる。
茶店やカフェでぼんやりしたり、ネットカフェにこもったり、お風呂へ逃げ込んだり。
仕事からは逃げられないから、働いてるあいだはなるべく心を無にする。
嫌だなって思ったら、すべきことはして、できるだけ無我の境地になる。堪えて時間が過ぎるのを待つ。
時間がきたら終わるのだから、一日が終われば関係性がリセットされるような相手とわざわざ気まずくなる必要もない。
わかりあうことを避けてるのかもしれない。
でもいい歳して職場で赤の他人に自分の不機嫌を撒き散らすような人と話しあってわかりあえるとも思えないしなあ。
その人はそういう人なのだ。魂が合わないのだ。だから割り切る。
我慢のし損だけど、生きる、働く、暮らすって、人間関係ってそういうとこあるもん。
相手が家族や友だちならあきらめはしないんだけど。
このごろ不機嫌な家人は、たぶん仕事でそういう目に遭ってて、それで家族には甘えてるのだ。
こっちはそのうち立ち直ってくれると思うので静観している。この人とは信頼関係があるので。
せめて家では好きなスポーツを観ながらおいしいもの食べてゆっくり寝て英気を養ってほしい。

怒ってもいいと思うのよ。
怒らなきゃならないときもある。自分のために。相手のために。
不当なことに怒るのも自分の心を守るためには必要だから。
でも怒りかたってあると思うのよ。
怒るべき怒りと、不機嫌は違うと思うのよ。
ぶつけるのも撒き散らすのも違うと思うのよ。
誰かが傷つく怒りってやっぱり不毛だし不幸だから。
エネルギーも使うしね。
わたしはあるときを境に「怒りたくないわ…」ってなってしまった側の人間なので、臆せず怒ってる人を見ると「元気だなあ」と感心する。いやみじゃないよ。
怒ってるってことは相手に期待してるってことでもあるから。自分にはないエネルギーだ。
でもそのエネルギー、ちょっと使いかたを変えてくれたら嬉しい。
しんどいこととかあるのなら何でもいいから話してほしいよな〜、いくらでも訊けるのにな〜、と思いながら待つとはなしに待ってます。わたしは。