うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

情熱がなくなると、どうなるの

もう、そこまでがんばれなくなった。少なくとも今は。
好きなのに。愛しているのに。
好きなものに興味や関心がわかなくなるのは、とても怖くて淋しいことだ。自分自身に対して。
愛してはいる。愛は変わらない。だからこそ悲しい。何もできなくなった自分自身が。
ここ最近そんなことばかり考えているのだけど、別段悲しいことじゃないのかもしれないな、とも思えてきた。
情熱の時間を過ぎたらだんだんと、想いは空気のような、あって当たり前みたいな気持ちになるのかもしれない。
それは決して幻滅や飽きじゃあないのだ。ましてや、どうでもよくなったのでもない。
憧れの人を応援する気持ちも、長い月日を経て、たとえば家族のような近しい人への想いに似通っていくのかもしれない。
ほら、家族にはわざわざがんばれって応援しないじゃないですか。
大げさなことは言わないし、あえて強く念じたり願ったりはしないけれど、当たり前のように変わらずに、いつも大事に想っている。
それと似た感覚になったのかもな、と。

わたしには、ずっと推している人がいる。
前に推していた人は神だったけど、今の人は神ではない。
わたしも歳と経験を重ねて、推しが自分と同じ人間であることと、神を崇め奉るような愛しかたはよろしくないことを知ったのだ。
彼は令和の時代になお昭和の匂いを感じさせる仕事をする人で、ひとことであらわすと頑固な職人さんだ。
その人の思うやりかたでひと仕事遂げて、夢を叶えた先の景色をわたしは見てみたい。
世が世なのでべらぼうに難しいことなのだが、いちどエスポワールシチーで、そして近年サウンドキアラでその扉は開きかけた。
そこがピークだったのだろう。
今、夢はまたちょっと遠ざかっている。
しかし大願それ自体は些細なことなのだ。
戦う誰かを好きで応援するのって、べつに「強いから」でも「勝つから」でもなくて、強くなるため勝つためにどんな道を選ぶか、その道を肯定できるかどうか。かっこいいと思えるかどうか。
なので勝てなかろうが何だろうがあなたの仕事を見せてくれ、という気持ちでずっといる。
あなたの信念の先にある世界を見たい。それだけ。
重たいかな。怒られるかな。でもそれがわたしの夢です。

なのだけど、近ごろは競馬場へも行けていない。
ままならぬ暮らしに心が埋没してしまったのか、年齢的なものなのか。
心身ともに疲れてしまった今、「趣味モード」がオフになって「生きるモード」に切り替わった状態。
ずっと燃えつづける焚き火なんてないわけで、燃料投下しつづければそれなりに燃えるだろうけど、何事にも限度はある。
今は火を消して休む時なんだろう。
やる気がなくなるのは、休むためだ。
休むのは、生きるためだ。
生きることは尊い
誰か何かを愛せるのも、好きなものを好きだと思えるのも、生きてこそだ。