うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

「好き」にまつわる呪いを解く

どんなに好きでも、気持ちや情熱があっても、ずっと続けてても、ぜんぜん「うまいこといえない。」
ブログタイトルにはそういう想いを込めている。
書くのも、語るのも、写真を撮るのも、やればやるほどに表現することが難しくなっていく。
うまくなりたいとはずっと思っている。うまくならなければと思ってきた。
いまこの時代に誰かと、趣味と、世界とつながるのならば。
でもわたしにはそのためのセンスも才能も情熱も足りないとあらためて実感したとき、自分と自分が世に出すものすべての価値がとても薄いもののように思えた。
それでしんどくなっていったん離れた。
うまくなくてもいいんだと思えたのは皮肉にも、好きを休んでみてからだった。
自分の「好き」をかたちづくって表現しなければならない、世に出すのならばうまくなければならない、と時代と世界に思わされてしまうのはあるいみ呪いみたいなものなのかもしれない。
SNSはあまりに自他を絶対的な評価の世界に放り込みすぎる。 
逆に言えばそれだけ誰にでも表現できるようになった、誰からも見てもらえるようになった、他者からダイレクトに反応を得られやすくなった、とも言えるのだけど。
いい時代になったと思う。
夜な夜な創作ノートにひとり書きつづっていた頃、個人サイトをひとりで更新していた頃、ブログ全盛期にひとり埋もれていた頃、誰かとつながって語りあいたいとどれだけ願い望んだか。
ところが、願った時代がやってきて、望んだ世界に居てみると、喜びと同時に以前とは違う悩みや苦しみを抱えるようになった。
どこかの誰かの反応を見ながら表現をつづけることは、なんだか感情を切り売りし、自分がすり減るような感覚もあった。
そんなの自分の気持ち次第だろう。自分が違うと思えれば断じて違うのだ。
でも合わない、強すぎる、プレッシャーだな、と感じる人もいてあたりまえではある。
いいねなんて人それぞれに違う意味を持つだろうに、目に見える数字というものほどわかりやすい評価はない。
好きと評価は似て非なるもの。
わかっているのにいいねがつかないと、誰にも見てもらえない、誰も必要としてないんだと淋しい錯覚に陥りがち。
他者の反応がどうあれ、自分にとって価値があるのなら数字なんてとるに足らないことのはずなのに。

好きな競走馬や自身が競馬の中で掲げるテーマについて寄稿をしていた頃が、ありがたくもいちばん評価されていた。
だけど、「好き」をかたちづくっているのに、いちばんしんどかった。
「こんなことを書ける自分を褒められたいがために馬を利用している」「馬が死んで悲しいくらいなら競馬なんかやめてしまえばいい」みたいな引用がついたことがずっと忘れられないでいる。
完全に誤解だしひどい言われようだと思ったけれど、あの言葉は呪いにも自戒にもなっていた。
そういうふうに見る人も言う人もいるのだと。
思い感じることは誰にも止められないし、咎められもしないし、表現するというのはそういうものをも受けとることでもあるのだと。
わたしには重すぎたので、結局そこから降りたというわけ。
「そこ」というのは、いやがうえにも評価をされてしまう場所です。
心が折れたといえば折れたのだろう。
折れてよかったのは、あとあとのいまになって「うまくならねば」という呪いを解いてくれたこと。
あの頃がいちばん「うまいこといえていた」。
でもがんばってうまく書いてもなんかキレてくる人だっているんだもの。
そう思えばもう好きにするのがいちばんね、ってなるよ。そらそうよ。

呪いは自分の心が生みだすものです。
だから、自分が違うと思えれば断じて違うし、自分にとって意味や価値があるのならそこに他者や評価は関係ないのです。
この境地にたどりつくまで、えらい時間がかかったもんだ。