うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

恋愛アレルギーこじらせて

赤ちゃんのころを知っている従姉妹が結婚する。
わたしと同年代くらいの、バツイチ子ありの男と。
そんなのは物語の中の話だと思っていたけれど、ほんとうに人生いろいろだ。
「それで、そういう自分はどうなの」と再確認させられるライフイベントが周りから不定期的に発生する。
わたしにはできない恋愛と結婚が、ときどき喜びを連れてきては、わたしを悩ませにやってくる。

歌も漫画も小説もエッセイも、ドラマも映画もワイドショーも。ツイッターも。
占いも、今年の運勢だけが見たいのにもれなく恋愛大特集のページがついてくる。
どこもかしこも、だれもかれも、誰を好きとか嫌いとか、くっついたとか離れたとか。
そんなことを歌ったり、創ったり、つぶやいたり、噂したりしている。
世界は恋愛であふれている。ときどき胸やけがする。

どうしてみんなそんなにも、心も体も触れて突き破って他人の中に入っていこうとするんだろう。
恋愛にはそんなかたちしかないのかな。
むやみに他者を侵さない、心地よい距離を保てる関係ってないのかな。
何が何でもくっついて触って詮索して、干渉しあわなければならないものなのかな。
わたしは、そんな執着のような気持ちを人に向けるのも向けられるのも、おそろしくてたまらない。

わたしを理解してくれた人は、わたしを束縛した。
恋人同士の約束は甘いものにはならなかった。
交際とは、パートナーのために時間も心も体も捧げて共有しあうものだと突きつけられた。
趣味も自由も一度捨てさせられた。
普通とやらを求められて、怖くて重くて息苦しくて、ごめんなさい無理ですとわたしは逃げ出した。
当たり前を普通にできなくて結婚の機を逃したのだ。
後悔はなかったが、どうやらわたしは異物で異常なのだという確信がわたし自身を傷つけて終わった。

恋愛も結婚も求めていない。少なくとも今は。
求めたい相手とめぐりあえていないから。
でもそれらを何もしていないというだけで、世の中のありとあらゆる普通からお説教をされているような気持ちに、ときどきなる。
後ろめたいことは何もないはずなのに。
世の中のありとあらゆる普通は、当たり前の幸せのかたちを無邪気に提案してくる。
幸せとは、恋で愛で結婚で出産ですよと。
卑屈にもそう感じるたびに、誰も選ばず誰にも選ばれず、何も残さず、ただ生きて死んでいく、それは不孝ではないのかと思わされる。
だから好きな人を探すのか?自分のために他者を求めるのか?といわれれば本末転倒だとも思う。
それはわたしにとっては、愛じゃなくエゴだ。(とわたしが感じるだけであって、決して他者の価値観を否定するものではないです)

子どものころのトラウマ(両親の離婚)が、若いころの失恋(好きな人とはどうあがいても結ばれなかった)が、千載一遇のチャンスを逃したこと(上記)が、わたしをこんなにも臆病にさせてしまった。こじらせてしまった。
人と深くかかわるのが怖い。人に興味や関心を抱くのが怖い、抱かれるのも怖い。わたしなんてこんな人間だから。
でも、いったん恋だの結婚だの普通の枠から飛び出せば、わたしはどこまでも自由になれる。
家族への愛、友だちや仲間、同志への愛、趣味への愛、好きなものや尊敬する人への愛。
心の中はいつもたくさんの愛であふれている。
それでいいんじゃないかなぁ。なみなみと注ぐ相手がいないのなら。
日々注げるものに注いでいられるのが、今の幸せ。
今持っている愛の中に、こじらせた何かを解くヒントが隠れている気がする。ほんとうに、なんとなく。