うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

常連になりたくないのは、

特別扱いされるのが苦手というのもあるけれど。
いつも行く店の店員さんに「いつもの人」対応されたくないのは、自分が何者でなくてもいい気軽な場所がなくなるのは気が重いから。
いったん顔を覚えられて人間関係ができてしまうと、その人と場所にも良好な関係維持のために気を遣わねばならなくなる。もう気軽じゃない。
自分の中ではもう会社と同じ、仕事と同じくくりになる。いい人であれとがんばらなきゃいけなくなる。(べつに、だからといってそうじゃない場所ではツンツンして素っ気なくしてるわけでは決してない)
それはコミュニケーション苦手な人間にはちょっと気が重いのだ。
お店と店員さんには礼を尽くすので、お互い名も顔も知らぬ店員さんとお客の関係のままいさせてほしいと思う。
サービスや商品と一緒にいくばくかの自由と、名なし顔なしさんでいられる権利をお金で買わせてほしい。

世の中にはそういう、ちょっと生きづらい人間もいる。
わたしはこの感覚を逃れられない性質として生きてきたからもうすっかりお馴染みなんだけど、そうじゃない人には想像もつかないのかも知れないなぁ、理解不能でもどかしいのかもなぁとあらためて感じた。
何も考えなくても人との関わりを苦なくやれる人って、そうするのが難しいってことも、そういう人もいるってことも、夢にも思ったことがないでしょう。
だから、いくら何訊いても意味分からない。
わたしはその「意味分からない」と突き放す言葉になんとなく引っかかりを覚えたのかも知れない。
どうしようもないコンプレックスだから。

たとえいいコミュニケーションでも、人と関わるとすり減る人間も世の中にはいる。
人との関わりで元気をもらえる人がいるのならば、逆も当然いるのだ。
誰かといると、相手の気持ちばかりを推し量ってしまう。
一緒に遊んで楽しく過ごした帰りにも「大丈夫だったかな?」「ほんとうに相手も楽しかったのかな?」「気を遣わせたかな?気を遣ってたことに気づかれてるだろうな」「あのときのやりとり、あの言葉でよかったのかな?」と不安に駆られたりする。
もちろん遊んだこと自体はとても楽しくて、回顧している事柄もただの杞憂なのだけど。
ひとりになった瞬間いろんなことが思い出されて、ひとりで青ざめたり赤面したりする。
だから人と関わるのにはエネルギーがいる。勇気もいる。
人と会う前は、どんなに好きで気心の知れた相手でも不安だ。
会いたいのに逃げ出したくなる。すり減ることがわかっているから。
会ってると楽しいけど、どこか不安。
気持ちがはりつめる。間違わないように、嫌な気持ちにさせないように、嫌われないように。
相手を好ましく思っていればいるほど、そうしてしまうことが怖いから。
自分の言動が人に何を感じさせるのか、それがずっと怖い。

難しいのは、人間が嫌いなわけでは決してないということ。すり減るから人と関わるのが嫌だというわけでもないということ。
気兼ねなく関わりたいのに、ものすごく気兼ねしてしまう。好きの裏返しだ。
だからコミュニケーションの場はなるべく限定したい。気を遣う場所をなるべく増やさない。お店の常連になりたくないのはそういう事情。
これは性質なのでもう一生変わらないだろう。
相手を信頼していると、いくらかやわらぐ。
信頼ってなんだろう? 好きってことかな?
でもわたしは、好きであればあるほど、あれこれ考えてしまう。
いつも行く店もいつもの店員さんも好ましく思っているからこそ。
好きだから関わりたい人がいるように、好きだからこそ関わることが難しくなる。
人間は難しい。40年ちょっとやってるけど、いまだにうまくやれない。